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『高校生ガイド・通訳』じえい

『高校生ガイド・通訳』じえい

Subang JayaにあるInternational School のYear11に在籍。 僕は中学3年生までは日本語しか話すことができなかったので2年間たくさん努力をして日常会話程度の英語を通訳することができるようになりました。今も完璧にはわかりませんが、できるだけ通訳できるよう頑張ります! じえい(写真右側)

はじめに『この活動の始まり』

はじめに『この活動の始まり』

こんにちは!現在高校2年生のじえいです!3年前、父の仕事の関係でマレーシアに引っ越してきました。引越し当初、中学生だった僕はマレーシアに来るまで、「太平洋戦争」は真珠湾攻撃から始まったと思っていました。でもそうではなかったことを知り、昨夏、両親とコタバルを訪れました。歴史ガイドのザフラニさんに日本軍が上陸したビーチや戦争博物館を案内してもらい、僕は日本では全く習わなかったクランタン州で起こった戦争について学びました。僕は両親も祖父母も小学校の先生もコタバルのことを知らないことに驚き、マレーシアに住む日本人として、こんな大事な歴史を知らないのは恥ずかしいと思いました。そこで、多くの日本人にコタバルに実際に訪れてもらい、遺跡巡りをしながら、マレー半島(マレーシア・シンガポール)での戦争について知ってもらいたいと考え、この活動を始めました。 活動内容 ・ガイド活動 ・戦争博物館の資料の翻訳 ・コタバル、戦争博物館のパンフレット作成

『日本軍が上陸したビーチ』クアラ・パク・アマ・ビーチ(Kuala Pak Amat Beach)

『日本軍が上陸したビーチ』クアラ・パク・アマ・ビーチ(Kuala Pak Amat Beach)

1941 年 12 月 8 日午前 2 時 15 分(日本時間)、日本軍は英領マレー半 島のコタバルに上陸しました。太平洋戦争はハワイ・真珠湾奇襲から始まったと思っている日本人が多いと思いますが、太平洋戦争はその約 1 時間前にマレーシ アで火ぶたを切っていました。 実はたったこの4行を書くのに、僕は 1 か月近く費やしました。なぜなら記録に残っている上陸時間が文献によって違うからです。 写真右に写っているものは「Wau」というマレーシアのタコ(Kite)のこと。 マレー上陸部隊の指揮官・侘美浩(たくみひろし)少将が戦後に書いた本の中には、「8日0130第一上陸成功すと無線にて報告」と書かれています。一方、英軍のある部隊の記録には、0045上陸(マレーシアタイム)とあります。現地のツアーガイド、ザフラニさんはシンガポール時間、マレーシア時間、日本時間、アメリカ時間、イギリス時間とあり、当時はマレーシア内にも時差があったと教えてくれました。戦争中は時計が水にぬれて止まっていたり、無線が壊れていたりして正しい時刻がわからないこともあったことなども教えてくれました。事実を歴史を知ることの難しさ。教科書に載っている歴史は一つの見方でしかないことを学びました。 83年前に約5500人の兵士たちがクアラ・パーク・アマという小さな漁村の海岸に上陸し、英兵と激戦を交わしたなんて想像できません。 真夜中の爆音に村民たちはどれほどの恐怖を味わったことでしょうか。 英軍の爆弾で炎上し、沈没した1隻(淡路山丸)は今も海の底に沈んだままだそうです。

『平和の時計台』Clock Tower of Peace

『平和の時計台』Clock Tower of Peace

マレー上陸部隊の第18師団の戦友会が1988年に建立しました。 側面には、マレー語、日本語、英語、ジャウィ文字(アラビア語)で、 「永遠に平和と自由の時を刻む、を祈る」 と刻まれています。かつては塔の上に時計がついていましたが、現在は塔のみが残っています。

『上陸時の日本軍拠点』コタバル戦争博物館

『上陸時の日本軍拠点』コタバル戦争博物館

War Museum in Kota Bharu。コタバルを占領した後、日本軍は銀行として使われていた建物を日本軍警察本部の拠点とした。1992年からマレー半島の戦争の歴史や●を紹介する戦争博物館となった。年間、●人が来館し、世界中から訪れている。この建物は1912年にインドのマーカンタイル銀行として建造された。現存するクランタン州最古の石造建築。

『旧イギリス軍基地』スルタン・イスマイル・ペトラ空港

『旧イギリス軍基地』スルタン・イスマイル・ペトラ空港

Sultan Ismail Petra Airport。 1938年にマレーシア東海岸で初めてできた空港です。コタバル上陸の目的の1つはマレー半島の制空権を確保することでした。クアラ・パーク・アマ・ビーチから上陸した日本軍は、翌日の夜に英軍の航空基地だったスルタン・イスマイル・ペトラ空港を占領しました。上陸から5日後には、周辺のタナメラ飛行場、クアラペトス飛行場も占領しました。先月末、増改築している空港敷地内で不発弾が発掘された。コタバルでの戦争はまだ終わっていない。 空港内の様子。

『英領インド兵たちは鎖で繋がれていた』トーチカ(Pill box)

『英領インド兵たちは鎖で繋がれていた』トーチカ(Pill box)

トーチカとは「コンクリートなどで作られた防御陣地」です。敵の攻撃から身を守りながら、開口部から機関銃などで外敵を銃撃します。英語ではピルボックス(Pill box)、ロシア語ではトーチカと呼ばれています。市内には今もいくつものトーチカが残されています。 ザフラニさんが、歴史研究に没頭し始めたのはトーチカにインド兵が鎖につながれていたことに疑問を抱いたからだそうです。インド兵たちはイギリス軍と協力し、日本軍と戦っていたはずなのに…。答えを知りたい方は新聞記事、「あの夜故郷で日本軍は何をした?職を捨てて追う「マレー作戦」を読んでください。(QRコードからアクセスまたはQRコードをクリック)

『コタバル1の戦争オタク』歴史ガイド:ザフラニ・アルフィン

『コタバル1の戦争オタク』歴史ガイド:ザフラニ・アルフィン

Zafrani Mohd Arifin氏 1971年クランタン州コタバルで育つ。マレー系マレーシア人。高校生の頃から30年以上、マレー作戦の歴史を追い続けている。働いている時間すら惜しくなったのだろうか。20数年勤めていた銀行を47才で辞め、現在は国内外からコタバルでの戦争に興味を持ってくる人達のガイドや戦争の歴史を次世代に伝える活動をしている。コタバル上陸(マレー作戦)については、多分、世界一詳しい。コタバルを訪れる時は、ザフラニさんに連絡をしてガイドをしてもらうことをお勧めします。